氷河の貴公子は、私を銀の檻から逃がさない

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 深夜二時。

 貸し切りにされたスケートリンクは、外界の喧騒を一切拒絶した「銀」の聖域だった。

 天井の天窓から差し込む冬の月光が、滑らかな氷の表面を照らし、冷たく鋭い光を反射している。

 シュルッ、と――

 静寂を切り裂くのは、硬質な刃が氷を削る音。

 リンクの真ん中で踊るその男、如月律(きさらぎ・りつ)を、人々は畏敬の念を込めて『氷河の貴公子』と呼ぶ。

 白銀に近いプラチナブロンドの髪をなびかせ、感情を排した銀色の瞳を虚空に向ける彼の姿は、人間というよりは冷徹な自然現象そのものに見える。

 私はリンクサイドのベンチに座り、彼が先ほどまで履いていた練習用のスケート靴を、専用のクロスで磨いていた。

「銀盤」という言葉がこれほど似合う男を、私は他に知らない。

 銀のブレードを指先でなぞる。

 氷を噛み、彼を高く、遠くへと運ぶこの刃は、私にとっては彼と私を繋ぎ止める鎖でもあった。

「あかり」

 不意に名前を呼ばれ、肩が跳ねた。

 いつの間にか滑走を止めた律が、リンクサイドの壁を掴んで私を見下ろしていた。

 激しい運動の後だというのに、彼の呼吸は少しも乱れていない。

 ただ、銀色の瞳だけが、暗闇の中で獣のように鈍く光っている。

「……はい、律さん。お疲れ様です。お水、飲みますか?」

「いや、いい。それより、明日の準備は終わった?」

 明日の朝。

 律は世界選手権のために北欧へと旅立つ。

 私はマネージャーとして、当然彼に同行する手はずになっていた。

「ええ、完璧です。航空券も、衣装も、現地でのスケジュール調整も」

 私は嘘をついた。

 私のバッグの底にあるのは、彼と行く北欧行きのチケットではない。

 彼が搭乗手続きをしている隙に、全く別の方向へと飛び立つ、片道航空券だ。

 律の執着は、年々常軌を逸していた。

 私の食事、睡眠時間、交友関係。

 そのすべてが、彼の「完璧な滑り」を支えるという名目で管理されている。

 スマホのGPSは常に共有され、私が少しでも予定外の場所に立ち寄れば、数分後には彼から冷ややかな声で電話がかかってくる。

『あかり。君がいないと、僕は氷の上で立てないと言っただろう?』

 その言葉は愛の告白などではない。

「パーツが勝手に動くな」という、所有者からの警告にすぎない。

 だから私は、逃げることに決めた。

 この銀色の檻から、一人の人間としての尊厳を取り戻すために。

「そうか。完璧か。……君はいつも、僕のために完璧でいてくれるね」

 律が氷の上から手を伸ばし、私の頬を指先でなぞった。

 保冷剤よりも冷たい指先。

 私は反射的に身をすくめそうになるのを、必死に堪える。

 ここで怪しまれるわけにはいかない。

 あと数時間。

 あと数時間で、私は自由になれるのだから。

***

 翌朝。

 空港の喧騒の中で、私の心臓は壊れた時計のように激しく脈打っていた。

 律は出国ゲートの近くで、ファンや報道陣に囲まれている。

 その隙に、私はトイレに行くと告げて、反対側の国内線ターミナルへ走るはずだった。

「律さん、少しお手洗いに」

「待って」

 彼の手が、私の手首を掴んだ。

 驚くほど強い力だった。

 骨がきしむ音が聞こえそうなほどの。

「……律さん?痛い、です」

「あかり。君の荷物の中に、妙なものが入っていたよ」

 律が自由な方の手で、自分のポケットから紙切れを一つ取り出した。

 それは、私がバッグの裏地に隠していたはずの、逃亡用の航空券だった。

頭の芯が、一瞬で凍りつく。

 どうして。

 いつ?

 昨日の夜、彼はリンクで滑っていたはずなのに。

「これを見て、悲しくなったよ。僕たちが向かう場所は、ここじゃない。……それとも、僕の管理が甘すぎたかな?」

 律の顔から、一切の表情が消えた。

 周囲の喧騒が遠のき、世界から音が消える。

 彼の銀色の視線が、私の瞳を捕らえて離さない。

「帰りましょう、あかり。世界選手権は欠場だ」

「えっ……?何を言って……そんなこと、できるわけが――」

「できるよ。僕が『足が痛む』と言えば、世界はそれを信じる。そして、その原因は君にあると、僕の狂信的なファンたちが知ったら、君はどうなると思う?」

 脅し。

 それも、最も残酷な形の。

 律は私の手首を掴んだまま、静かに歩き出した。

 向かうのは搭乗ゲートではなく、地下駐車場へと続くエレベーターだった。

***

 連れ戻されたのは、空港でも、彼のマンションでもなかった。

 深夜、私たちがいた、あの貸し切りのスケートリンクだった。

 真っ暗な館内。

 ただ中央のリンクだけに、青白いスポットライトが当たっている。

 律は私をリンクの中央に突き飛ばした。

 氷の冷たさが、タイツ越しに肌を刺す。

「律さん、お願い、やめて……」

「やめる?何を?僕はただ、君にプレゼントをあげたいだけなのに」

 律が懐から、小さな箱を取り出した。

 中に入っていたのは、細い、けれど重量感のある銀のアンクレットだった。

 ただの装飾品ではない。

 その端には、鍵穴のような小さな突起がついている。

「これはね、特注なんだ。僕のスケート靴のブレードと同じ、最高級のステンレス鋼で作らせた。銀色に見えるだろう?美しいよね」

 律は私の抵抗をものともせず、右の足首にそれを嵌めた。

 カチリ、という硬質な音が、広いリンクに虚しく響く。

「……あ」

「これは、僕が持っている鍵でしか外れない。GPSも内蔵されている。……これで安心だ。君がどこにいても、僕がすぐに迎えに行ける。このリンクの、この氷河の上から、一歩も出さなくて済む」

 律が私の隣に座り込み、アンクレットを指先で愛おしそうに撫でる。

 その瞳には、今までに見たこともないような、陶酔しきった輝きが宿っていた。

「見て、あかり。氷と、銀。……なんて美しいんだろう。君はここで、僕の滑りだけを見ていればいい。他の誰にも見せず、僕のためだけに、君の時間を捧げるんだ」

 彼は立ち上がり、スケート靴を履いて氷の上を滑り始めた。

 私の周りを、ゆっくりと、円を描くように。

 まるで私を閉じ込める魔法の陣を描いているかのように。

「あかり、外の世界は暑くて、汚れていて、嘘ばかりだ。でもここは違う。ここは純粋な銀の世界。君を傷つけるものは何もない。……僕以外はね」

 律の滑走速度が、段々上がる。

 シュッ、シュッ、と氷を削る音が、私を切り刻むように響く。

 逃げようと立ち上がろうとしたけれど、足首の銀の鎖が、重く、冷たく、私の自由を奪っていた。

 見上げれば、律が私に向かって微笑んでいる。

 氷河のような冷たさを湛えた、美しすぎる狂気の微笑み。

「一生、逃がさないよ。僕の銀の檻から」

 月光を反射する銀のアンクレットが、私の足首で、目に染みるほど透明に輝いていた。

 私はもう、この冷たい美しさの中で生きていくしかないのだ、と。

 凍りついた心で、受け入れるしかなかった。

~fin~

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