🌙執着 🌙ヤンデ 🌙独占 🌙フィギュアスケー 🌙監 🌙溺 🌙冷徹ヒーロ 🌙銀色
深夜二時。
貸し切りにされたスケートリンクは、外界の喧騒を一切拒絶した「銀」の聖域だった。
天井の天窓から差し込む冬の月光が、滑らかな氷の表面を照らし、冷たく鋭い光を反射している。
シュルッ、と――
静寂を切り裂くのは、硬質な刃が氷を削る音。
リンクの真ん中で踊るその男、如月律(きさらぎ・りつ)を、人々は畏敬の念を込めて『氷河の貴公子』と呼ぶ。
白銀に近いプラチナブロンドの髪をなびかせ、感情を排した銀色の瞳を虚空に向ける彼の姿は、人間というよりは冷徹な自然現象そのものに見える。
私はリンクサイドのベンチに座り、彼が先ほどまで履いていた練習用のスケート靴を、専用のクロスで磨いていた。
「銀盤」という言葉がこれほど似合う男を、私は他に知らない。
銀のブレードを指先でなぞる。
氷を噛み、彼を高く、遠くへと運ぶこの刃は、私にとっては彼と私を繋ぎ止める鎖でもあった。
「あかり」
不意に名前を呼ばれ、肩が跳ねた。
いつの間にか滑走を止めた律が、リンクサイドの壁を掴んで私を見下ろしていた。
激しい運動の後だというのに、彼の呼吸は少しも乱れていない。
ただ、銀色の瞳だけが、暗闇の中で獣のように鈍く光っている。
「……はい、律さん。お疲れ様です。お水、飲みますか?」
「いや、いい。それより、明日の準備は終わった?」
明日の朝。
律は世界選手権のために北欧へと旅立つ。
私はマネージャーとして、当然彼に同行する手はずになっていた。
「ええ、完璧です。航空券も、衣装も、現地でのスケジュール調整も」
私は嘘をついた。
私のバッグの底にあるのは、彼と行く北欧行きのチケットではない。
彼が搭乗手続きをしている隙に、全く別の方向へと飛び立つ、片道航空券だ。
律の執着は、年々常軌を逸していた。
私の食事、睡眠時間、交友関係。
そのすべてが、彼の「完璧な滑り」を支えるという名目で管理されている。
スマホのGPSは常に共有され、私が少しでも予定外の場所に立ち寄れば、数分後には彼から冷ややかな声で電話がかかってくる。
『あかり。君がいないと、僕は氷の上で立てないと言っただろう?』
その言葉は愛の告白などではない。
「パーツが勝手に動くな」という、所有者からの警告にすぎない。
だから私は、逃げることに決めた。
この銀色の檻から、一人の人間としての尊厳を取り戻すために。
「そうか。完璧か。……君はいつも、僕のために完璧でいてくれるね」
律が氷の上から手を伸ばし、私の頬を指先でなぞった。
保冷剤よりも冷たい指先。
私は反射的に身をすくめそうになるのを、必死に堪える。
ここで怪しまれるわけにはいかない。
あと数時間。
あと数時間で、私は自由になれるのだから。
***
翌朝。
空港の喧騒の中で、私の心臓は壊れた時計のように激しく脈打っていた。
律は出国ゲートの近くで、ファンや報道陣に囲まれている。
その隙に、私はトイレに行くと告げて、反対側の国内線ターミナルへ走るはずだった。
「律さん、少しお手洗いに」
「待って」
彼の手が、私の手首を掴んだ。
驚くほど強い力だった。
骨がきしむ音が聞こえそうなほどの。
「……律さん?痛い、です」
「あかり。君の荷物の中に、妙なものが入っていたよ」
律が自由な方の手で、自分のポケットから紙切れを一つ取り出した。
それは、私がバッグの裏地に隠していたはずの、逃亡用の航空券だった。
頭の芯が、一瞬で凍りつく。
どうして。
いつ?
昨日の夜、彼はリンクで滑っていたはずなのに。
「これを見て、悲しくなったよ。僕たちが向かう場所は、ここじゃない。……それとも、僕の管理が甘すぎたかな?」
律の顔から、一切の表情が消えた。
周囲の喧騒が遠のき、世界から音が消える。
彼の銀色の視線が、私の瞳を捕らえて離さない。
「帰りましょう、あかり。世界選手権は欠場だ」
「えっ……?何を言って……そんなこと、できるわけが――」
「できるよ。僕が『足が痛む』と言えば、世界はそれを信じる。そして、その原因は君にあると、僕の狂信的なファンたちが知ったら、君はどうなると思う?」
脅し。
それも、最も残酷な形の。
律は私の手首を掴んだまま、静かに歩き出した。
向かうのは搭乗ゲートではなく、地下駐車場へと続くエレベーターだった。
***
連れ戻されたのは、空港でも、彼のマンションでもなかった。
深夜、私たちがいた、あの貸し切りのスケートリンクだった。
真っ暗な館内。
ただ中央のリンクだけに、青白いスポットライトが当たっている。
律は私をリンクの中央に突き飛ばした。
氷の冷たさが、タイツ越しに肌を刺す。
「律さん、お願い、やめて……」
「やめる?何を?僕はただ、君にプレゼントをあげたいだけなのに」
律が懐から、小さな箱を取り出した。
中に入っていたのは、細い、けれど重量感のある銀のアンクレットだった。
ただの装飾品ではない。
その端には、鍵穴のような小さな突起がついている。
「これはね、特注なんだ。僕のスケート靴のブレードと同じ、最高級のステンレス鋼で作らせた。銀色に見えるだろう?美しいよね」
律は私の抵抗をものともせず、右の足首にそれを嵌めた。
カチリ、という硬質な音が、広いリンクに虚しく響く。
「……あ」
「これは、僕が持っている鍵でしか外れない。GPSも内蔵されている。……これで安心だ。君がどこにいても、僕がすぐに迎えに行ける。このリンクの、この氷河の上から、一歩も出さなくて済む」
律が私の隣に座り込み、アンクレットを指先で愛おしそうに撫でる。
その瞳には、今までに見たこともないような、陶酔しきった輝きが宿っていた。
「見て、あかり。氷と、銀。……なんて美しいんだろう。君はここで、僕の滑りだけを見ていればいい。他の誰にも見せず、僕のためだけに、君の時間を捧げるんだ」
彼は立ち上がり、スケート靴を履いて氷の上を滑り始めた。
私の周りを、ゆっくりと、円を描くように。
まるで私を閉じ込める魔法の陣を描いているかのように。
「あかり、外の世界は暑くて、汚れていて、嘘ばかりだ。でもここは違う。ここは純粋な銀の世界。君を傷つけるものは何もない。……僕以外はね」
律の滑走速度が、段々上がる。
シュッ、シュッ、と氷を削る音が、私を切り刻むように響く。
逃げようと立ち上がろうとしたけれど、足首の銀の鎖が、重く、冷たく、私の自由を奪っていた。
見上げれば、律が私に向かって微笑んでいる。
氷河のような冷たさを湛えた、美しすぎる狂気の微笑み。
「一生、逃がさないよ。僕の銀の檻から」
月光を反射する銀のアンクレットが、私の足首で、目に染みるほど透明に輝いていた。
私はもう、この冷たい美しさの中で生きていくしかないのだ、と。
凍りついた心で、受け入れるしかなかった。
~fin~
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