15

 目を開けると、見知らぬ木製の天井が視界を占めていた。

「……」

 そこがどこであるかを気づくより早く、弾かれたように意識が覚醒する。

――やってしまった。

 大切な約束に遅刻したことを悟った時のような、胃の底が冷えるような絶望感が全身を駆け抜ける。

 勢いよく跳ね起きると、その反動で足元に掛かっていた毛布が床へと滑り落ちた。

 荒い呼吸を整えながら周囲を見渡せば、窓の外にはまだ濃い闇が居座っている。

 時計の針は、早朝の四時を指していた。

 恐る恐る、自分の体の状態を確認する。

 大浴場でお湯に浸かりながら涙を流していたのが、昨夜の最後の記憶だった。

 身に纏っているのは見覚えのないパジャマで。肌触りの良いパステルピンクの生地。私の体にはわずかに小さく、どこか幼いデザイン。

 視線を横に向ければ、その持ち主はすぐに分かった。隣では、熊や兎が描かれた子供っぽいパジャマを着たクロエが、窮屈なシングルベッドの端で安らかな寝息を立てている。

 状況は、火を見るより明らかだった。

 私は大浴場で意識を失い、誰かに運ばれたのだ。おそらく、戻りの遅い私を心配して見に来たクロエが発見し、ここまで運び、着替えさせてくれたのだろう。

(……最悪だわ)

 想像するだけで、猛烈な自己嫌悪が込み上げてくる。

 この屋敷に来て、まだ一日も経っていない。

 それなのに、目立つような形で現れた挙句、早々に失態を演じて周囲に迷惑をかけてしまった。

 ――このまま逃げようか。

 そんな本能的な欲求に駆られ、室内を見回して昨日まで着ていた薄汚いメイド服を探したが、どこにも見当たらなかった。

 ピンク色のパジャマを見下ろす。

 こんな格好で、寒空の下へ逃げ出せるはずもなかった。

 不意に、二度目の、そして先ほどよりも深い嫌気が私を襲った。

(……一体いつまで、逃げることばかり考えてるつもり?)

 静まり返った早朝の闇の中で、自問してみる。

 私は、こんなにも臆病で逃げ腰な人間だっただろうか。

 公爵令嬢として生きていた頃の記憶はあっても、その時の自分がどんな誇りを持ち、どんな心持ちで世界を見ていたのか、今はもう思い出すことすら難しかった。

 では、どうすればいい。

 答えは、一つしかなかった。

「……変わるしかない。新しい自分に」

 無意識のうちに、声が漏れた。

 シングルベッドを二人で分け合っている窮屈さのせいか、クロエがむにゃむにゃと寝言を言いながら眉を寄せたが、幸いにして彼女が目を覚ますことはなかった。

 私はクロエを起こさないよう細心の注意を払い、そっとベッドを抜け出した。

 素足の裏を、冷たい木の床に下ろす。

 暁の冷気が足の裏から骨を伝い、全身へと響き渡った。

 その鋭い寒さは、停滞していた私の血液を根こそぎ書き換えていくような、不思議な高揚感を伴っていた。

 裸足のまま窓際へと歩み寄る。

 空は、朝日が昇る直前のブルーアワーに染まっていた。

 今、私の内側を巡っている、過去を塗り替えようとするこの冷気と同じ色のように思えてくる。

 次第に白んでいく空に呼応するように、絶望の底で泥濘(ぬかるみ)のようにもがいていた思考が、静かに、けれど確実に浄化されていくのを感じた。

「今までのエルナは、もういない」

 私は、自分自身に言い聞かせるように、決別を告げる。

「あのエルナは、もう死んだのよ」

 窓硝子に吐き出した吐息が、火葬を終えた後の白く細かな遺灰を撒くように、白く淡く広がった。

 それが朝の光に溶け込み、透明な虚空へと消えていく。

 もはや、過去という鎖に自分を縛り付けはしない。

 早朝に目を覚まし、窓越しにいつもと変わらぬ、何の変哲もない日の出を眺める。

 ただそれだけのことが、今の私にはまるで新しい生命を授かった儀式のように感じられた。

 この静かな決意の瞬間こそが、私の全人生において最大のターニングポイントになるのだという、確信に近い直感が走る。

 地平線から顔を出した朝日は、産み落とされたばかりの卵のように瑞々しく、私の視界を鮮やかに焼き払った。

 迷いや雑念、心の奥底に澱のように溜まっていた負の思考が、一気に晴れ渡っていく。

 生まれて初めて味わうような深い解放感が、静かな快楽となって全身を包み込む。

 自暴自棄などではない。

 それは、心からの幸福に近い、柔らかな微笑みとなって私の口元から零れた。

「泣くことはあっても、もう逃げたりはしない」

 私は昇りゆく太陽に向かって、密やかに宣言した。

「これからの、今のエルナを生きるの」

 覚悟を固めたその瞬間、メイド棟全体にけたたましい目覚ましのベルが鳴り響いた。

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