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「……私の屋敷のメイドに、随分と粗暴な真似をしてくれるではないか」

 低く、地這うような声音が響いた瞬間、店内の空気は一変した。

 私の腕を掴んでいた男たちの動きが、まるで時間が止まったかのように凍りつく。

 男たちの顔からは一気に血の気が引き、その視線は入り口に立つ一人の男性に釘付けとなった。

 アルフォンス・マクシミリアン・ベルンハルト侯爵。

 彼がそこに立っているだけで、豪奢な宝飾店が色褪せて見えるほどの圧倒的な存在感。

「……アルフォンス様」

 掠れた私の声に、彼は一歩、また一歩と歩み寄る。

 その足音は静かだが、レノアの護衛たちはその威圧感に耐えきれず、弾かれたように私の腕を離して後退った。

 アルフォンス様は私の隣に立つと、唐突に私の肩を抱き寄せ、その手で私の汚れを払うように優しく触れた。

「アルフォンス様……。ああ、ちょうど良かったですわ」

 最初に沈黙を破ったのは、レノアだった。

 彼女は侯爵の登場に一瞬だけ頬を染めたが、すぐに声を張り上げた。

「この女……エルナは、私の屋敷から勝手に逃げ出した不届きなメイドなのです。主人が所有物を連れ戻すのは当然の権利。どうか、その手を離していただけませんか?」

「所有物、か」

 アルフォンス様は初めてレノアに視線を向けたが、その瞳には何の感情も宿っていなかった。

 まるで足元の小石でも見るような、冷酷な眼差し。

「……店主、ここへ」

 アルフォンス様が短く命じると、奥で震えていた店主が這いずるようにして現れた。

「は、はい!何なりとお申し付けを、侯爵閣下」

「この店、建物、在庫、そして営業権。すべてを含めて、今すぐいくらになるか答えろ」

 唐突な問いに、店主だけでなく、レノアやイザベラまでもが息を呑んだ。

 店主は混乱しながらも、震える指でそろばんを弾き、天文学的な数字を口にする。

「……お、およそ……金貨五千枚、かと……」

「支払おう」

 即答が放たれる。

「今この瞬間、この店は私の所有物だ」

 アルフォンス様は懐から魔法印の押された小切手を取り出すと、迷いなくサインをし、店主の手に押し付けた。

 あまりの出来事に、店主は膝から崩れ落ちる。

「さて、レノア・エトワール伯爵令嬢」

 アルフォンス様は、買い取ったばかりの店の権利書を無造作に手に取り、それをゴミでも捨てるようにレノアの足元へ投げ捨てた。

「それを、貴女の屋敷から彼女を連れ出した『迷惑料』として差し上げましょう。これで貴女の言う『所有権』とやらは、完全に清算されましたね?」

「な、……えっ?」

 レノアは呆然と足元の紙切れを見つめた。

 店一つを、ただの「対価」として投げ与える。

 そんな常軌を逸したやり方に、彼女の傲慢な言葉はすべて飲み込まれてしまったようで。

 しかし、その横で静観していたイザベラが、不快そうに目を細めて口を開いた。

「アルフォンス様、いくら清算されたところで、身分というものは変えられませんわ。彼女は所詮、没落した家の娘。公爵家のわたくしたちと並び立つ資格など、万に一つもございませんのよ?」

 イザベラの言葉は鋭く、毒を含んでいた。

 周囲の店員たちも、その言葉に頷くように冷ややかな視線を私に向ける。

 だが、アルフォンス様は動じなかった。

 彼は私を引き寄せる腕にさらに力を込め、イザベラを見据えて凛とした敬語で告げた。

「クレイソン公爵令嬢。……どうか、勘違いなさらないでください」

 その声は低く、しかし店内の隅々にまで響き渡る。

「あの日、彼女と目が合った瞬間に、私はこの美しい瞳の輝きに、抗いようもなく心を奪われました。身分などどうでもいい。彼女は私が一生をかけて愛し抜くと誓った、唯一の女性。ただそれだけです」

 店内が、水を打ったような静寂に包まれる。

「……っ」

 そしてイザベラの顔が、屈辱と驚愕で歪む。

 レノアも口をパクパクとさせ、何も言えずに立ち尽くしている。

 アルフォンス様は、驚きで顔を上げることすらできない私の額に、そっと指を添えた。

 その指先は驚くほど熱く、慈しみに満ちていて。

「エルナ、もう行きましょう。……こんな場所に、君の時間を一秒たりとも使う必要はない」

 彼は私の手を取り、震えるクロエを優しく促すと、呆然とする彼女たちを一瞥もすることなく店を後にした。

 外には、侯爵家の紋章が入った豪奢な馬車が待機していた。

 アルフォンス様は私を宝物のように抱え上げ、馬車へと運び入れる。

 閉まる扉の向こうで、レノアの絶叫が聞こえた気がしたが、すぐに馬車の走り出す音にかき消された。

 馬車の中、二人きりになった瞬間、私はようやく呼吸を思い出した。

「アルフォンス様。あの、今のは……」

「君と別れた後、やはり嫌な予感がしてね。すぐに後を追ってきて正解だった」

「ああ、アルフォンス様……」

「二度と、あんな奴らに指一本触れさせはしない」

 窓から差し込む夕日に照らされた彼の瞳は、これまで見たこともないほど深く、そして青く、私を射抜いていた。

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