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 王宮の「大舞踏の間」は、建国記念を祝う無数のシャンデリアの光に埋め尽くされていた。

 豪奢な絹を纏った貴婦人たちが扇を揺らし、着飾った貴族たちが金縁のグラスを傾ける。

 だが、その華やかな喧騒の下で流れているのは、およそ祝祭には似つかわしくない不穏な噂話だった。

「……聞いたか?ベルンハルト侯爵が、例のスパイの処刑を力ずくで阻止したらしい」

「ああ、それどころか第二騎士団を動かして王宮の一角を占拠しているとか。……侯爵ともあろうお方が、没落した罪人の娘にそこまで狂わされるとは」

 会場の中心。

 クレイソン公爵は、そうした噂を耳にするたび、満足げに鼻を鳴らした。

 彼の隣では、深紅のドレスで着飾ったイザベラが、勝ち誇った笑みを浮かべて会釈を振りまいている。

「皆様、ご心配には及びませんわ。アルフォンス様は、あの忌まわしい魔女に毒されているだけなのです。……今夜中には近衛兵が塔を制圧し、哀れな被害者である閣下をお救いする手はずになっておりますのよ」

 イザベラの言葉に、周囲の貴族たちは「流石は公爵令嬢だ」と調子を合わせた。

 公爵家は、アルフォンスの行動を「洗脳された男の暴走」に仕立て上げることで、彼が提出しようとする証拠の信憑性をあらかじめ奪い去ろうとしていた。

 ――だが、その傲慢な確信は、不意に突きつけられた「真実」によって打ち砕かれることになる。

「アルフォンス・マクシミリアン・ベルンハルト侯爵閣下、および……ルミナス家令嬢、エルナ・ルミナス様、ご入場でございます!」

 儀典官の、震えるような大音声がホールに響き渡った。

 一瞬にして、音楽が止まったかのような静寂が会場を支配する。

 全ての視線が、開かれた正面の大扉へと注がれた。

 現れたのは、漆黒の礼装に身を包んだアルフォンスだった。

 銀色の髪を完璧に整え、冬の夜空のような瞳に冷徹な知性を湛えた彼は、まさに王者の風格を纏っている。

 そして、その傍らに、彼の腕に手を添えて立つ一人の淑女。

「……っ、あれが、噂のスパイ……なのですか?」

 誰かが、ひきつったような声を漏らした。

 ホールを埋め尽くす貴族たちの間に、波紋のような動揺が広がる。

 彼らの記憶には、まだ鮮明に残っていた。

 数日前の舞踏会で、泥に汚れた靴を磨き、冷たい床を這い、貴族たちの食べ残しを片付けていた、あの影のように薄暗いメイドの姿が。

「馬鹿な……。あれはルミナス家の生き残り、ただの端女(はしため)のはずだぞ」

「国家反逆罪で取り潰された家の娘が、なぜ……あんな姿で」

 ざわめきは、次第に明確な毒を含んだ囁きへと変わっていく。

 エスコートされるエルナは、その刺すような視線の全てを肌で感じていた。

 かつて自分を顎で使い、嘲笑った令嬢たちの嫉妬。

 自分を虫けらのように見下した高官たちの侮蔑。

 一歩歩くごとに、過去の自分が浴びせられた「卑しいメイド」「反逆者の種」という罵声が耳の奥で蘇る。

 だが、その恐怖を打ち砕いたのは、隣を歩くアルフォンスの力強い体温だった。

「顔を上げろ、エルナ。……今この場に、君より尊い者など一人もいない」

 アルフォンスの低く、静かな声が彼女の耳に届く。

 エルナは、彼女の瞳の色と同じ、深い森の奥底のようなエメラルドグリーンのドレスを纏っていた。

 数日前、膝をついて床を磨いていた時に着ていた、色あせたメイド服とは対極にある、光の結晶のような装い。

 ベルンハルト家に代々伝わるエメラルドの輝きは、彼女が「侯爵の独占物」であることを示しており、そのあまりの神々しさに、罵ろうとした者たちの言葉が喉の奥で凍りつく。

「……あり得ないわ。あんな、泥を舐めていた女が」

 イザベラの扇が、嫌な音を立てて手の中で折れた。

 昨日まで自分の足元に傅かせていた元・令嬢が、今、自分が見上げることしかできないほどの光輝を放って立っている。

 その事実が、イザベラのプライドを無慈悲に切り裂いた。

 アルフォンスは、呆然と立ち尽くす群衆を冷徹な眼差しで割らせ、王宮の中心へと進む。

 その背後には、副団長のエドガーとレイが、護衛として、そして鉄壁の威圧感を放って控えている。

 

「ベルンハルト侯爵……。何の真似だ!国家反逆罪で没落した罪人を、このような神聖な場に連れ出すとは、陛下への不敬であるぞ!」

 クレイソン公爵が、震える指を差して叫んだ。

 彼は周囲の貴族たちに向けて、必死に言葉を重ねる。

「皆!あの女はルミナス家の残党、たぶらかしの魔女だ。侯爵を術にかけ、かつての地位を取り戻そうと画策しているに過ぎん!」

 公爵の言葉に、周囲の空気も再び敵意に染まりかける。

 だが、アルフォンスは一歩も引かなかった。

 彼はエルナの腰に手を添え、公爵を氷の刃のような視線で射抜いた。

「不敬、か。……クレイソン公爵、貴殿の口からその言葉が出るとは皮肉だな」

 アルフォンスの声は、ホールの隅々にまで染み渡るような重みを持って響いた。

「私が隣に連れているのは、貴殿が捏造した汚名によって、この数年、不当な屈辱に耐え続けてきた被害者だ。……メイドとして汚い床を磨かせ、彼女の誇りを踏みにじり、最後には死刑台へ送って真実を闇に葬ろうとした。……その罪、今さら『洗脳』などという幼稚な嘘で隠せると本気で思っているのか?」

「き、貴様……!」

「アルフォンス様、おやめなさい!」

 イザベラが、顔を赤黒く染めて割り込んできた。

「その女はスパイですわ!昨日の今日まで、私たちを嘲笑うためにメイドのふりをしていた薄汚い泥棒猫!早く、早く近衛兵を呼んでこの女を捕らえてちょうだい!」

 イザベラの叫びに応じるように、周囲の近衛兵たちが一斉に動き出そうとする。

 だが、その瞬間、アルフォンスの背後に立つエドガーが、地響きのような鎧の音を鳴らして一歩踏み出した。

「これより先は、第二騎士団が管理する。……不確かな罪状で令嬢に触れようとする者は、私が不敬罪としてその場で斬り捨てる」

 エドガーの大盾が床を叩く衝撃。

 そして、レイの冷ややかな抜刀の音。

 王国最強と謳われる第二騎士団の威圧感に、近衛兵たちは金縛りにあったように動けなくなった。

「――静まれ」

 ホールの奥、一段高い場所から、重厚な声が響いた。

 国王陛下が、騒乱を聞きつけ、姿を現したのだ。

 アルフォンスは、エルナを伴って国王の前へと歩み寄り、静かに膝を突いた。

「陛下。……この気高い姿を見て、まだ彼女を『薄汚いスパイ』だと思われますか?」

 アルフォンスの問いかけに、国王はエルナをじっと見つめた。

 平民に成り下がり、昨日まで影のように働いていたメイド。

 その彼女が、今は全列席者の誰よりも背筋を伸ばし、失われたルミナス家の誇りをその身に宿している。

 国王は、その瞳の奥に宿る「真実」の光に、微かに目を見開いた。

「……ベルンハルト侯爵。貴殿が、己の地位と名誉、そして騎士団の忠誠を賭してまで、今この場に彼女を連れてきた理由を述べよ」

「は。……陛下、本夜ここに、ルミナス家を陥れ、我が国を蝕んできた『真の裏切り者』の正体を暴くための、すべての証拠を持参いたしました」

 アルフォンスは力強く宣言し、懐から一つの封書、そして――あの偽造印章を取り出した。

 会場に、心臓の鼓動すら聞こえそうなほどの緊張が走る。

 

 没落した元令嬢が、騎士団長の隣で真の貴婦人として再生する。

 断罪の幕が、今、上がろうとしていた。

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