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 ※エルナの視点に戻り

 深夜の侯爵邸は、静寂そのものに支配されていた。

 厚い絨毯が敷かれた回廊を、私は音を立てないように静かに歩く。

 手に持っているのは、魔導ランプに充填するための予備の魔石と、先ほど騎士団の詰め所から届けられた至急の封書だ。

 ――まだ、明かりがついている。

 執務室のドアの隙間から漏れる細い光を見て、胸の奥がチリリと痛んだ。

 ショップでのあの一件以来、アルフォンス様は公務の合間を縫って、何かに取り憑かれたように調査を続けているらしい。

(一体、どのような調査を……)

 私は一度深呼吸をしてから、控えめにドアを叩いた。

「アルフォンス様、夜分に失礼いたします。ランプの魔石をお持ちしました」

 中から短い返事があり、私は部屋へと足を踏み入れた。

 室内は沈黙が重く沈殿しており、机の上には古い羊皮紙や複雑な家系図。

 そして……数年前のあの日、私の世界を壊した「国家反逆罪」の捜査報告書が広げられていた。

 当時の父上の写真や、チラシなどが散乱していたから、すぐにわかることができたのだ。

 私の指先が、目に見えて震える。

 他にも、私の父が「軍の補給物資を横流しした」とされる記録。そして、あの日、父の書斎から「発見」されたという、ルミナス家の紋章が押された偽りの書状もいた。

「……アルフォンス、様。これは、一体……」

 絞り出すような私の声に、アルフォンス様がハッとして顔を上げる。

 彼は瞬時に机の上の書類を隠すように手を置いたが、私の見開かれた瞳を避けることはできなかった。

「エルナ……」

「どうして……どうして、こんなものを調べていらっしゃるのですか?」

 答えずにいる彼に、私は詰め寄るように続ける。

「これは、もう何年も前に王命によって下された判決なのです。一度確定したものを掘り返すことがどれほど危険か、閣下ならお分かりのはずです!」

 私の心臓は早鐘を打っていた。

 もちろんありがたい。私のために、わざわざ密かに調査を始めていたなんて、感激極まりない。

(だけど……。だけど……!)

 父の無実を証明したいという願いよりも、私を救ってくれたアルフォンス様が、私の過去のせいで破滅してしまうことへの恐怖が勝った。

「もしバレれば、閣下ご自身が不敬罪に問われ、地位も名誉も失ってしまうかもしれません。お願いです、私のために、これ以上の無茶はなさらないでください……!」

「……」

 必死の訴えに、アルフォンス様は静かに椅子から立ち上がった。

 彼は机を回り込み、呆然と立ち尽くす私の目の前で足を止める。

 高い背丈が作る影が私を覆い、彼特有の、サンダルウッドの冷たくも落ち着いた香りが鼻腔をくすぐった。

「エルナ、落ち着いて聞いてくれ。私は無謀な賭けをしているわけではない」

 アルフォンス様の大きな手が、私の頬をそっと包み込む。

 彼の、素肌の熱が直接伝わってくる。

「すべて説明するには、あまりにも込み入り過ぎて出来かねないけど……。レイの報告、そしてこの数年の公爵家の不自然な動き。すべてが、君の信じる『真実』を指し示している。私が再調査を決めたのは、単なる同情ではない。私が私自身の意志で、暴くべき影があると判断したからだ」

「でも……」

「いいえ、違うな。最大の理由は、君だ。私は君を見ている。そして、信じている。……君という人を。理由はただ、それだけかもしれない」

 熱い視線に射抜かれ、私は息をすることさえ忘れてしまう。

 彼の言葉は続く。

「あの日、私が心を奪われた、君のその瞳。芽吹くような輝きの中に、底知れぬ切なさを抱え、それでも真っ直ぐに真実を射抜こうとする……その緑色の瞳だ。君のような瞳を持つ者が信じる父親なら、そこには必ず、君の誇りを取り戻すための道があるはずだ」

 その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも深く私の心を揺さぶった。

 私はたまらず、彼の胸に顔を埋めた。

「……っ、ありがとうございます……。アルフォンス様……」

 溢れ出した涙が彼のシャツを濡らしてしまう。

 アルフォンス様は、壊れ物を扱うような慎重さで、しかし拒絶を許さない強さで、私を抱き寄せた。

 厚い胸板から伝わる、力強く速い鼓動。

 ふと気になる。

 今この瞬間、彼も私と同じように高揚し、狂おしいほどの情熱を抱いているのだろうか。

「エルナ……」

 名前を呼ぶ声が、耳元で低く、甘く響く。

 彼は私の腰を引き寄せ、密着した体温が服越しに伝わってくる。

 彼の獣のような激しさが指先から伝わってくるようで、背筋が甘く痺れる。

「君を、あんな過去の暗闇に置いておきはしない。必ず光の下へ連れ戻す。……そのためなら、私はなんだってしてみせるよ」

 彼は私の顎を優しく上向かせると、涙で濡れた睫毛に、そして頬に、慈しむように何度も口づけを落とした。

 やがて、熱を持った視線が私の唇に止まる。

「嫌なら、拒んでくれ」

 そう囁きながら、彼はゆっくりと顔を近づけてきた。

 拒む理由など、どこにもなかった。

 私はただ、彼が与えてくれる強烈な愛に翻弄されるまま、そっと瞳を閉じた。

 深夜の執務室。

 

 重なる吐息と、静かな衣擦れの音だけが、二人の深い誓いを祝福するように響いていた。

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