舞踏会の熱狂が冷めやらぬ翌朝。
王宮を後にした魔導馬車は、北の国境へと向かう街道を猛然と駆けていた。
車内には、深い眠りに落ちたエルナと、その隣で静かに書面を捲るアルフォンスの姿があった。
ふと、エルナが微かな震えと共に目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、窓の外に広がる見慣れぬ、しかしどこか懐かしい北方の山々。
「……アルフォンス、様……?私は、どれくらい眠って……」
「数時間だ。疲れていたのだろう。無理もない」
アルフォンスは優しく彼女の髪を撫で、窓の外を指し示した。
「もうすぐ着く。君に会わせたい人がいるんだ」
「会わせたい、人……?」
馬車が止まったのは、地図にも載っていないようなひなびた村の、さらに奥にある古い石造りの屋敷だった。
周囲には第二騎士団の精鋭たちが、誰一人通さぬという気迫で警護にあたっている。
馬車を降りたエルナの前に、アルフォンスは静かに立ち、彼女の緑色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「エルナ。……かつて、私は君の前で君の父、ローランド卿のことを『失望した』と言ったことがあったな」
エルナの胸が、ズキリと痛んだ。
「……はい」
「すまなかった。……実はあれはすべて、『演技』だった」
アルフォンスの言葉に、エルナは目を見開いた。
「あの時、クレイソンはルミナス卿を事故に見せかけて暗殺しようとしていた。まだ何も知らなかったその時の私は、表向きは君の父を蔑んで見せた。だが、裏では「やはりあの方がそんなはずがない」と疑っていた。だから私は第二騎士団の隠密部隊を動かし、襲撃の直前に卿を救い出し、この地に隠した」
「え……?嘘、そんな……」
「信じられないのも無理はない。だが、真実はこの扉の向こうにある」
アルフォンスが重厚な扉を開くと、そこには暖炉の火に照らされた、一人の初老の男性がいた。
痩せ細ってはいるが、その背筋はかつての公爵時代と変わらず、真っ直ぐに伸びている。
「……お父様?」
震える声に、男性がゆっくりと振り返った。
「……エルナ。……ああ、エルナ!」
「お父様ぁぁ!!」
エルナは叫び、父の胸へと飛び込んだ。
数年間の空白、屈辱、そして諦めかけていた希望。
それらすべてが、父の腕の中で熱い涙となって溢れ出す。
アルフォンスは、その光景を少し離れた場所から、満足げに、そして誇らしげに見守っていた。
***
父との再会から数時間後。
アルフォンスの計らいにより、魔導馬車はさらにルミナス家の旧領別邸へと向かった。
そこで待っていたのは、さらなる「奇跡」だった。
別邸のホール。
そこには、副団長レイにエスコートされた母、エヴリン。
そして、副団長エドガーに伴われた弟、ジュリアンの姿があった。
「お母様!ジュリアン!」
「エルナ!よくぞ、よくぞ無事で……!」
母エヴリンは娘を抱きしめ、天に感謝を捧げた。
一方、逞しく成長した弟ジュリアンは、姉を辱めた世界に復讐を誓い、今までずっと辺境の傭兵団で泥を啜る日々を送っていた。
「……あなたが、アルフォンス侯爵か」
ジュリアンは、姉の隣に立つ氷の王を鋭い眼光で見据える。
本来ならば不敬に当たる無礼な物言いだったが、アルフォンスは眉ひとつ動かさず、むしろその家族を想う少年の剥き出しの気概を静かに受け止めるかのように、正面から向き合った。
「そうだ。……君の姉を、これからは私が守る。君の力も、これからは復讐のためではなく、家門の再興のために使ってほしい」
アルフォンスの圧倒的な覇気と、姉に向ける底知れぬ慈愛。
それを感じ取ったジュリアンは、深く息を吐き、腰の剣を解いた。
「……ちっ。敵わないな。……でも、あんたなら、信じられるかも。姉さんを、頼む」
「ああ。任せてくれ」
バラバラになっていたルミナス家が、アルフォンスという一人の男の執念と愛によって、再び一つに結ばれる。
それは、クレイソン家を潰したことよりも、エルナにとっては遥かに価値のある「勝利」だった。
***
その夜、再会を祝う静かな宴の後。
別邸の寝室のバルコニーで、エルナは一人、月を見上げていた。
「冷えるぞ、エルナ」
肩にかけられたのは、アルフォンスの上質な外套。
そして、背後から彼自身の体温が、彼女を包み込んだ。
「アルフォンス様……。私、まだ夢を見ているようです。こんなに幸せでいいのでしょうか」
「足りないくらいだ。……これからの人生、すべてをかけて、君が失った以上の幸福を君に与えると決めている」
アルフォンスは、彼女の細い腰を力強く引き寄せた。
月の光に照らされた彼の横顔は、戦場での冷徹さは微塵もなく、ただ一人の女性を愛する男の、剥き出しの独占欲を秘めている。
寝室の明かりが落とされ、暖炉の火だけが二人の影を壁に長く映し出す。
アルフォンスはエルナの頬を包み込み、ゆっくりと、しかし確かな重みを持って唇を重ねた。
彼の熱が、エルナの芯まで溶かしていく。
そしてアルフォンスの指先が、彼女のうなじから背中へと、羽毛のように優しく、同時に震えるような熱を持って這う。
「……エルナ。その緑の瞳を、私以外には見せないでくれ。……一生」
耳元で囁かれる掠れた声。
エルナは彼の首に腕を回し、その圧倒的な存在感にすべてを預けた。
かつて死刑台の冷たさに震えていた彼女は、今、この世で最も熱く、最も安全な聖域に抱かれている。
触れ合う肌の微かな熱、高まる鼓動。
深い闇の中、互いの呼気だけが混じり合う。
それは、言葉以上に饒舌な、命の交感だった。
夜が更ける中、二人は朝が来るのを拒むように、深く、甘やかな情愛の海へと沈んでいった。
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