14

 嵐のような瞬間が過ぎ、再び訪れた台風の後のような静寂。

 興奮で高鳴る鼓動を鎮めるように、私とクロエはしばらくの間ぼうっとしていたが、たちまちクロエが恍惚とした表情で私に詰め寄ってきた。

「聞きましたか、エルナ様……」

 彼女がほれぼれの顔で言う。

「『可愛い部屋だね』と仰いましたよね……。それってつまり、私自身のことも可愛いと認めてくださったのと同じですよね……!?」

 それは少し違うのではと思ったが、私は苦笑交じりに彼女が望む返事を与えてやる。

「ええ、間違いなくそういう意味でしょうね」

 するとクロエは両手で自分の頬を覆い、まるで憧れの人に心を奪われた少女のような仕草で続けた。

「それに……私の名前を、あの甘美な唇が発音してくださるなんて。この名を頭の中に入れてくださったなんて! もう、今死んでも悔いはありません……!」

 彼女は夢見るように瞳を閉じていたが、ふと思い出したように目を見開くと、てきぱきとした動作で机の上のトレイを整え始めた。

 銀色のカトラリーを並べるその手つきには、先ほどまでの浮ついた様子とは打って変わった、現役のメイドらしい冴えがあった。

「さあ、エルナ様、お召し上がりください。侯爵様が直々にお運びくださったのです。パン屑一つ残してはなりませんよ!」

「ええ、いただきます」

 私は導かれるまま、食事に取り掛かる。

 トレイの上には、湯気を立てる厚切りの肉料理に、香ばしい匂いを放つ焼き立てのパン、そして蜂蜜のように甘く温かな牛乳が並んでいた。

 口に運ぶたび、滋養が乾いた体に染み渡っていく。

 平民に身を落としてからというもの、これほど豊かで、慈悲深い温もりに満ちた食事を摂ったことがあっただろうか。

「美味しい……」

 思わず零れる独白。

 体が栄養を渇望していたのか、私は瞬く間に料理を平らげた。

 丁度その頃、別のメイドが部屋を訪れ、大浴場の準備が整ったことを告げに来た。

 私はクロエの案内に従い、メイド寮の奥へと向かった。

 案内された大浴場は、王都の公衆浴場を思わせるほど広々としており、清潔な蒸気が立ち込めていた。

「ここが寮の、メイド専用の大浴場です」

 クロエが誇らしげに紹介してくれる。

「では、私は部屋に戻りますね。終わったらお一人で戻れますか?」

「ええ、覚えているわ。大丈夫よ」

 クロエから清潔な着替えを受け取り、「ありがとう」と礼を言って彼女を見送る。

 そうやって一人ぽんと残される。

 私は行儀を正す気力さえ失い、体を洗うよりも先に、吸い込まれるように湯船へと沈み込んだ。

 熱いお湯が冷え切った全身を包み込む。

 あまりの心地よさに、喉の奥から呻きのような溜息が漏れた。

――やっと、一人になれた。

 安堵が訪れた途端、まるで奇襲でも受けたかのように、堰き止めていた感情が溢れ出ス。

 堪えていた涙が、熱い奔流となって頬を伝い落ちた。

 今日まで、いつどこで壊れてもおかしくないほどの絶望の中にいた。

 それを超人的な忍耐で押し殺してきたのだが、今、その緊張の糸がぷつりと切れた。

 一年分の涙をすべて今ここで使い切ってしまおうという勢いで、私は声を殺して泣き続けた。

 溢れる涙は湯船のお湯に混じり、音もなく希釈されて消えていく。

 喉が渇きを覚えるほどに泣き腫らし、ようやく私は呼吸を整えることができた。

 ふと、壁に備え付けられた鏡に視線が向く。

 湯気に蒸され、上気した肌のせいか、先ほどクロエの部屋で見た時ほど悲惨な顔には見えなかった。

 それでも、頬の削げたみすぼらしい姿であることに変わりはない。

(……アルフォンス様は、こんな私にダンスを申し込んでくださったのね)

 考えれば考えるほど、今夜の出来事が不可解な幻影のように思えてならなかった。

 あまりに長く、過酷な一日。

 全身の強張りが完全に解け、深い弛緩が訪れる。

 そろそろ戻らなければ……。

 そう思う自分と、あと数秒だけ、この温もりに浸っていたいと願う自分が、心の中で何度もせめぎ合う。

 だが、その綱引きも長くは続かなかった。

 極限の疲労は、抗いようのない睡魔となって私を襲った。

 まどろみの淵へと吸い込まれるようにして、不覚にも私は湯船の中で、深い無意識の闇へと沈んでしまったのだった。

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